生命の歓喜
肉体に宿る生命力を尊び、五感を開き、官能の奥にある生命の美を知る。
まぐわいを修行とし、愛を悟りとする。
身体・官能・愛・意識を通じた、修養の道
身体を穢れとせず、
欲望を罪とせず、
官能を生命の尊き働きとして受け入れる。
艶密道は、タントラの思想と密教的な悟りの哲学に着想を得て、創始者マリリンが体系化した現代の実践哲学です。生命の歓喜を味わいながら、自我や執着を観じ、愛と自由を探究します。
艶・密・錬・和 ― 修養を支える四つの道
肉体に宿る生命力を尊び、五感を開き、官能の奥にある生命の美を知る。
静寂の中に自己を観じ、意識と無意識の深奥へと分け入り、内なる真実を探究する。
欲望を抑圧せず、感情を否定せず、その働きを見極め、執着を智慧へと転じる。
自己と他者、身体と精神、官能と霊性を敵対させず、調和を育む。
官能を開き、欲望を錬り、
愛を修め、悟りを観ずる。
肉体を通じて生命を知り、愛を通じて自己を超え、
自由なる意識へと至る道。
― 官能を錬り、愛を修め、悟りへ至る道 ―
艶密道を歩む者が大切にする精神と、学びを伝える者が守るべき倫理を、七つの条に記す。
艶密道とは、肉体に宿る生命の歓喜を通じて、自己の深奥に眠る智慧を開き、愛と覚醒へ至る修養の道である。
身体を穢れとせず、欲望を罪とせず、官能を生命の尊き働きとして受け入れる。
その歓喜に溺れることなく、執着を観じ、感情を錬り、自己という境界を超えた意識の自由を探究する。
官能は入口であり、愛は修行であり、悟りはその先に見据える境地である。
艶密道は、艶・密・錬・和の四法を修養の根本とする。
艶|生命の歓喜
肉体に宿る生命力を尊び、五感を開き、官能の奥にある生命の美を知る。
密|内奥の智慧
静寂の中に自己を観じ、意識と無意識の深奥へと分け入り、内なる真実を探究する。
錬|欲望の錬金
欲望を抑圧せず、感情を否定せず、その働きを見極め、執着を智慧へと転じる。
和|不二の調和
自己と他者、身体と精神、官能と霊性。
相反するものを敵対させず、分かち難い生命の働きとして受け入れ、調和を育む。
艶密道において、まぐわいは単なる快楽の追求にとどまらない。
互いの存在を尊び、身体と心を開き、生命の歓喜を通じて自己と他者を深く観ずる実践となり得る。
まぐわいを通じて自らの欲望、恐れ、執着を知り、愛と慈悲を育む。
されど、まぐわいは悟りの必須条件ではない。
修行とは、特別な体験を得ることではなく、あらゆる体験を智慧へと転じていく営みである。
禊とは、自己を穢れた存在として否定することではない。
心に積み重なった思い込みや執着を見つめ、本来の自由を取り戻していく象徴的な実践である。
悲しみも、怒りも、欲望も、歓喜も。
そのすべてを自己探究の糧とし、生命の経験を智慧へと錬成する。
艶密道を歩む者は、己の身体と心に誠実であることを第一とする。
他者の自由を侵さず、愛の名のもとに支配せず、修行の名のもとに服従を求めない。
身体への接触や親密な実践は、互いの明確な同意のもとにのみ行われる。
師は、教えを独占する者ではなく、道を照らす者である。
師の権威は、他者を従わせるために用いてはならない。
弟子の尊厳と自由意思を守り、依存ではなく自立を育むことを使命とする。
艶密道は、創始者マリリンによって体系化された修養の道である。
その教えは、技法のみを伝えるものではない。
艶密道の精神を理解し、自らの生き方によって体現する者へと継承される。
形式に囚われず、されど本義を失わず。
時代を超えて、生命の智慧を伝え続ける。
まぐわいによる
修行・禊・悟り
まぐわいとは、他者を通じて自己を知る営み。
特別な体験を求めるためではなく、そこに現れる感情や執着を観じ、智慧へと転じていく。
実践を行わない自由も、修行の尊厳の一部です。
― まぐわいを修行とし、愛を悟りとする ―
官能を入口とし、執着を観じ、愛を修める。艶密道が何を修行とし、何を目指すのかを示す七つの義。
艶密道において、まぐわいは単なる肉体の交わりではない。
それは、身体を通じて自己の深奥を知り、愛と意識を探究する修行である。
人はまぐわいの中で、歓喜だけでなく、恐れ、期待、羞恥、欲望、執着など、さまざまな自己の姿に出会う。
それらを否定することなく観じ、自己への理解を深めていく。
まぐわいとは、他者を通じて自己を知る営みである。
官能とは、単なる快楽の追求ではない。
身体に宿る感覚を深く味わい、生命の豊かさを知ることである。
艶密道は、官能を抑圧すべきものとも、無条件に追い求めるべきものとも捉えない。
官能を通じて生じる感情や欲望を観察し、自己の内面を理解するための入口とする。
人は愛するがゆえに、相手を失うことを恐れる。
愛されたいと願い、満たされたいと望み、ときに相手を自分の思いどおりにしようとする。
艶密道では、こうした自我の働きを否定せず、まず気づくことを大切にする。
愛と執着の違いを見つめ、所有する愛から、自由を尊重する愛へと成熟していく。
艶密道における禊とは、身体や欲望を穢れとして清めることではない。
自らの内面にある恐れや思い込み、執着に気づき、それらとの関わり方を変えていく象徴的な実践である。
まぐわいを通じて心が揺れ動くとき、その体験を自己探究の機会とする。
感情を無理に解放することも、特定の体験を得ることも求めない。
艶密道が目指す悟りとは、自我や執着に囚われることなく、愛そのものとして生きる境地である。
それは、愛されることを必要としなくなるという意味ではない。
誰かを愛する喜びも、愛される喜びも味わいながら、相手を所有せず、恐れに支配されない自由を育むことである。
まぐわいによって得た気づきを、日常の人間関係や生き方へと広げていく。
艶密道の修行は、常に自由意思と相互の尊重に基づく。
まぐわいを重要な実践として位置づけながらも、誰かに性的な実践を義務づけることはない。
指導者の権威によって親密な行為を求めることも、修行の進度や悟りの深さを性的な経験によって評価することも認めない。
実践を行わない自由も、修行の尊厳の一部である。
艶密道は、まぐわいを通じて官能を知り、官能を通じて自己を知り、自己を知ることで執着を超えていく道を探究する。
まぐわいは修行であり、愛はその実践であり、自由は目指す境地である。
官能を開き、執着を観じ、愛を修め、自由へ至る。
これを艶密道の根本教義とする。
観る・感じる・愛する
感情、欲望、恐れ、執着を否定せず、
今の自分をありのままに観じる。
身体の感覚に意識を向け、
生命の歓喜と静寂を深く味わう。
互いの自由と尊厳を守り、
日々の関係の中で愛を実践する。
― 愛を求める者から、愛そのものへ ―
艶密道が目指す悟りとは、自我や執着から自由になり、愛そのものとして生きる境地である。
それは、欲望を消し去ることでも、感情を失うことでもない。
欲望が生まれる自分を知り、感情が揺れ動く自分を受け入れながら、それらに支配されることなく生きることである。
人は愛を求める。
愛されることを望み、満たされることを願い、ときに失うことを恐れる。
その恐れから、相手を所有しようとし、愛という名のもとに執着する。
しかし、愛は所有するものではない。
愛は、相手を自分の思いどおりにすることでも、自分を犠牲にして尽くすことでもない。
互いの自由と尊厳を認めながら、存在そのものを慈しむことである。
艶密道は、官能を通じて生命の歓喜を知り、まぐわいを通じて自己と他者の深いつながりを探究する。
その体験の中で、自らの欲望、恐れ、期待、執着に気づいていく。
官能は目的ではなく、自己を知るための入口となる。
まぐわいは所有や依存のためではなく、愛と意識を深める実践となり得る。
そして、やがて気づく。
愛は、誰かから与えられることによってのみ生まれるものではない。
愛は、自らの内側から育み、他者へと分かち合うことのできる生き方そのものである。
愛されることに囚われず、愛することを恐れず、失うことへの不安に支配されない。
それは、何も感じなくなることではない。
深く感じながらも、囚われないことである。
官能を味わい尽くし、執着を手放し、愛そのものとして生きる。
これを、艶密道が探究する悟りの境地とする。
艶密道の思想と修養体系を形にした創始者。
官能を単なる快楽の追求としてではなく、自分自身を知り、愛と自由を探究するための入口と捉える。その哲学を「艶・密・錬・和」の四法に託し、日々の生き方へつなぐ道を伝える。
愛を求める者から、愛を生きる者へ。
艶密道の理念に共鳴し、その学びを日々の実践へと深めたい方へ。
修行の内容や受講については、長期講座専用ページでご案内します。